バンコクとタイ家族のこととくだらない話と

タイ在住歴20年のライター・高田胤臣の個人的なブログ

ふと子どものころのことを思い出した

 ウェッジ・インフィニティというサイトの「5歳児でリーダーが必要な理由」という記事を読んだ。
 いろいろと考えさせられる内容だ。リーダー像を造っていくところからまずはじめるというのがいいね。日本もタイも、まずはそこからはじめないといけないねえ。
 こんないい幼稚園がタイにあったらいいのに。インターナショナル校以外のタイ人の幼稚園に行くと、なかなかそういうのには会わないんじゃないかな。
 タイは年下はあまり大事にされない。日本語ではおじいちゃんおばあちゃんと普通に言うと父方か母方かわからないが、タイ語ではちゃんと分かれている。逆に孫とか甥とか姪が一般的にはラーンって一括りになっていて誰の子どもかわからない。そんな感じで子どもたちの立場が低いような気がする。だから基本的にだめなものはだめって理由で禁止したり叩いたりする。
 でも自分自身についてもときどきはっと気がつくのは、ネネに対して注意するときにやっぱりだめだめって言うだけのときがある。できるだけだめな理由も言うようにはしているけど、なかなかうまくいかない。
 そういったところを補ってもらえる幼稚園がいいんだけどね、本当は。




 このリーダーがどうのっていう記事を読んでて幼稚園とか小中あたりのことをちょっと思い出したわ。
 幼稚園のころはリーダーみたいなのをやらされてたもんだ。でも、あれは苦痛でしかなかった。本当に本当に嫌だった。元々気が小さいし、人前に立つことが苦手だったから。
 小学校に上がって、同じ幼稚園からは誰ひとり上がってこないところだったから完全にゼロからのスタートだったけど、3年生くらいになって学級委員とかやらされてさ、最悪だった。ただこう言ってはなんだが、勉強もできたし、クラスでは一番何事もフェアに見ることはできていたと思うから、選ばれてしまうのは仕方がなかったのかな。でもやりたくないもんはやりたくないもんね。それから中学卒業まで1学期間だけだけど、ほぼ毎年1回はなってたと思う。だから学校は苦痛の場所でしかなかった。みんなと遊びたくても行事のなんかで呼ばれていたり、学級委員だからって悪さに誘われなかったり、一緒にやれば学級委員が率先したって言われたり。
 5年生くらいのときに生徒会役員に推薦されて選挙に出された。嫌々やるもんでもないだろうに、無理矢理やらされてさ。そんで小学校始まって以来の最低票数を記録して怒られた。ホント殺してやろうと思ったよ、担任を。
 小学校のときは登校斑というのがあって、6年生が班長班長になって下級生らと並んで行くんだが、5年の時にちょうど6年生が欠けてて俺がやることになった。同い年にひとりいたんだが、ちょっとだめな奴だったんで近所の親たちはみんな俺にやってほしがった。俺は6年生でやりたいと主張した。確実に2年連続でやらされるから。結局6年生ではもうひとりの彼がやるという約束で班長になった。そんで、6年生になる直前の集まりでおばさんらは俺が班長で当然みたいなことを言い出した。当然揉めることになって、下級生らの前でわがまま言うんじゃないと怒られた。この人もホント死ねと思うよ。このおばさんの子は男ふたり兄弟で、下は俺のひとつ下で、上はいくつ上のなかな。今で言う引きこもりで、噂では中3を2回やったらしい。自分の子もまともに育てられんでよく怒るわ。というか、大人が自分らで言ったことを反故にするってどうよ。始業までずれ込んで向こうが折れたけどね。でも結局は俺が班長やっているようなもんだった。ただ、そういう代表になりたくなかった。
 リーダーという話で一番思い出すのは中2のときだ。唯一この年だけ一度も学級委員にならなかったんだけど、とんでもないのが就いたから最悪。立候補者がひとりの場合無投票だからたぶんそれでなったんだと思う。学級委員の仕事はいろいろな行事などで単に人だったり会議だったり意見だったりをとりまとめる役だ。それがそのアホはすべての決定権を得たのかと勘違いしていたようで、たとえば、林間学校のバスの席とかいろいろと意見があるわけだから多数決で決めたりしてとりまとめてあげなければならないのに、勝手に全部決めてた。小1で同じクラスで、国語の授業で先生にどこどこを読んでくださいと言われて座ったまま黙読したようなアホで、たぶんそのままの知能で中学まで来たんだと思う。





 小学校のときは隣組だっけ? 5人組だっけ? 江戸時代の密告制度の、あんな感じですごくぎすぎすしてた。
 中学もほとんどが一緒に上がるから、やっぱりそんな感じがあった。それに元々柄の悪い土地で、同じ学年の人はいなかったけど、上も下も少年院みたいなのは普通にいて、やくざになった人も結構いるみたい。
 そんな感じだったけど、やっぱり友だちになりたいからって思っても、学級委員だからとか勉強ができるからって言われてひとつ距離を置く人なんかがいて、とても悲しかった。
 だから勉強ができることに何の誇りもなかった。それが高校行ったら真逆でさ。勉強できることに誇りを持ってて、尊敬されてて、いきいきとしてた。
 あのギャップについに俺も壊れたわけね。
 でも、ちゃんと退学できたからよかった。もしもあのまま無理でも続けさせられてたら、未成年者の凶悪犯罪の走りになってたかもしれないし。





 もう死んでしまったけど小学校からずっと仲がよかったYと、今でも交流がある地元の友人らでYの部屋で焼酎のコーラ割りとかCCレモンだったかな? あんなんで割ってべろべろになるまで飲んで、夜中にカラオケ行ったり、道路の真ん中で寝転がって話したりとか、そんなことしてた16から18くらいのときが楽しかった。心は壊れてたけど彼らと遊んでいるときだけは自由な気持ちだった。
 もうバンコクに住んで8年くらいになってしまって、なかなか彼らとも会えないけど、なんとか親友と呼べる仲間がいて、帰ったら会う約束ができて、って、普通の30代になれたんだから人生ってわからんもんだね。
 タイに来たばかりのときは一時期親とも一切連絡を取ってなかったこともあったけど、アムとネネって家族ができてから良好な関係になっている。ネネアムにも感謝だね。





 結局人生ってどうなるかなんてわからんから、ネネを育てるに当たって最低限程度でいいのかなとも思う。
 だけど、いい幼稚園には入れさせたい。いい教育を受けさせたい。というか、いい環境で自分に自信を持って自分の意見を言える子になってほしい。
 人生は全部自己責任だと思うから環境とかのせいにはしたくないけど、でも、環境ってとても大事だと高校に入ったときに思った。俺が抱えている問題の解決に向けてアドバイスをしてくれる人もいなかった。聞く姿勢を持ち合わせていなかったけど、正直、大人に不信感を持たせるようなことをしてきた大人も悪いのではと思う。
 だから、せめて自分の子どもをしっかりと見つめて、同じ目の高さで話をしてできる限りの範囲で導いていきたい。
 当然だけど、俺の世代とかはネットはおろか携帯もない時代で、情報収集は本かテレビかラジオか口コミしかなかった。今は真偽は別として、溢れるほどに情報があるから、この先もすごいことになるだろう。
 ネネが年頃になるころには俺らがついて行けないくらいのハイレベルな世界になっていて、その世代の子どもたちが抱える問題にさえ追いつけないかもしれない。でも、諦めないで行きたいし、自分にいっぱいいっぱいにならないように、余裕を持って生きていたい。





 なんか変な日記になったな。
 なにが言いたいのかというと、子どものころに出会った大人たちを片っ端からぶん殴っていきたい。
 そういうこと。
 リーダーの話から次元と人間の程度がだいぶ低くなったけど、そういうこと。