バンコクとタイ家族のこととくだらない話と

タイ在住歴20年のライター・高田胤臣の個人的なブログ

HPの写真のあり方

 今日のニュースにあった、30代の小学生の教諭が、交通事故の被害者の児童の写真*1を自身のホームページに載せて逮捕された件で、俺も人ごとではないなぁと。
 どんな人も、一言では語れない面やドラマがあって、決して軽く見てはいけないし、決して入り込んではいけない領域がある。
 また、どんな人であっても守られるべき権利があって、周囲も履行しなければならない義務がある。
 今回、その男性教諭が何を考えてその写真を掲載したのかはわからない。何か社会のためになる、彼にとっての正義感から掲載したのかもしれない。俺が目にしたニュースや新聞にはどういったつもりで掲載していたのかは書いていなかった。
 でも、それはやりすぎだ。子どもの写真はもっと慎重に扱ってしかるべきものだ。子どもは自分の権利を守ることができない、肉体的にも社会的にも弱者だ。大人が守ってやらなければならない存在なのだ。ましてや学校の教師たるものが・・・・・と思うと本当に呆れる。
 学校の教師は学業もそうだが知能テストを実施しなければならない時代だ。実際はもっともっと昔からされなければならないことだ。俺の小学校中学校時代の教師もそうだった。連中は今も教師として働いているのだろうか。
 話が逸れたが、このご時世、人は決して一人では生きて行けない。必ず何人か関係する人がいる。そもそもたった一人でこの世に産まれてくることはできない。父となる男がいて母となる女がいて、チョメチョメをするわけだけれども*2、まさか何の感情もなく一瞬で終わるわけじゃあるまい、誕生した時点ですでに一言では語れない側面を持っていることになる*3
 俺らレスキューは人の死に普通の人たちより多く接するわけだけど、やっぱり、人であれ動物であれ、死という現象はなんとも謎で、変な言い方をすれば、魅力的で、何度見ても、考えさせられるものがある。
 人間観察が俺の趣味なので、よく現場に行ったときに隊員や野次馬の顔を見ているんだけれど、みんなとりあえず一目見ようと前に出てくるんだよね。そして、人それぞれで違うけれど、数秒から数分間、目に焼き付けるように黙って見つめて離れていく。
 でも、誰にも答えは見出せない。
 死は決して分かつことはできない。
 人が一人死ぬと、それを取り巻く人や物が渦を巻くように動いてゆく。末端というか、生きている間に関わることのなかった俺たちレスキューや警察も動くわけだし。時にはその渦は別のエネルギーを持って周囲に影響を与えていく*4
 たった一人が死んだだけで、悲しむ人が何人もいる。
 特に小さな命の死は、その先にある未来が大きかった分、悲しみも大きい。
 小学校の教諭が、守るべきものを守らずにやってしまった責任は大きい。
 俺は教師じゃないから、なんてことは言いません。撮影は外国だし、発信は日本だし、まあいいじゃないか、と言うのは正直なくはない。
 やっぱり、事故の写真や死体の写真は載せていきたいと思う。だってそれがレスキューの活動なのだから。
 でも、先の事件を教訓に、もっと慎重に扱わなければならないのは事実だ。
 もっと厳かに書くべきか。
 この文体で厳かに書くのは至難の業だが。
 大きな課題を突きつけた事件だ。

*1:確かこの教諭とは何の関係のない児童かと思うが、詳細をメモしていない

*2:これだけ情報が氾濫した時代、コウノトリが運んできたのよ〜、なんていう親がいてそれを信じる子どもがいるのだろうか。ちなみに俺は橋の下で拾ったとよく言われたが、子供心に、アルバムの最初のページの挿絵がペリカンだったので、とりあえずペリカンに捨てられうちの母に拾われたと解釈。ひねくれた親の発言をひねくれた子どもが解釈して元に戻った状態? マイナス×マイナス=プラスに納得

*3:最近よくある人工授精などチョメチョメなしという選択肢もあるが、それを選んだ母にもドラマがあるし、精子を提供した男にも何やら訳があるじゃないか。いったいどうやって取り出すんだろうか。美人な看護婦さんが、文字通り、手伝ってくれるのだろうか

*4:数年前の友人の死が今も彼の家族や俺に少なからず影響を与え続けていると思う